ギターを弾く人なら、SNSやYouTubeに投稿されている弾いてみた動画を見たことがあるだろう。
そうやって趣味の音楽活動をしている人は大勢いる。
「弾いてみた」動画やカバー演奏は、楽しいし、上達のモチベーションにもなる。
再生数が伸びれば嬉しいし、同じ趣味の人と繋がれるきっかけにもなる。
SNS時代の今、そういった“演奏の共有文化”は広く普及している。
けれど、その活動の多くは、法律的にグレーなゾーンを著作者が黙認してくれているおかげで成立している、という現実がある。
著作権者に“指摘されていない”だけ。
結論から言えば、SNSでの演奏動画の投稿は、必ずしも違法になるわけではない。
たとえばYouTubeやInstagramなど、一部のプラットフォームはJASRACやNexToneと包括契約を結んでいて、管理楽曲については一定の範囲で演奏や投稿が認められている。
これは、演奏者にとっては非常にありがたい環境だ。
しかし、それは「許可されたから自由にやっていい」という意味ではない。
著作者(=作曲者や作詞者)が、明示的に「カバー自由です」と言ったわけでもなく、レーベルや出版社がすべての動画に目を通して個別に許諾したわけでもない。
つまり、違法ではないが、正式に“OK”をもらっている状態ではないという点は押さえておく必要がある。

SNSでの音楽活動は“著作者の善意”の上に成り立っている
多くの著作者は、自分の曲がコピーされ、自由に演奏され、広まっていくことに対して寛容な姿勢を見せている。
これは、楽曲が「愛されている証」として受け取ってくれているからだ。
ただ、それは著作者の気持ち次第でいつでも態度が変わりうるということでもある。
実際、あるアーティストが「改変されたアレンジに不快感を覚えた」としてSNS投稿を指摘した事例もある。
「カバーされることは嬉しい。でも、自分の意図とは違う形で使われるのは望んでいない」と語る著作者も少なくない。
SNSで公開される演奏の多くは、そうした著作者の“暗黙の許容”によって支えられている。
つまり、演奏者は著作者の“善意に甘えている”状態とも言える。
著作物は“共有財産”ではない
音楽は誰かの創作物であり、著作者にとっては財産であり、表現であり、アイデンティティでもある。
それを、知らない誰かに勝手に使われたり、意図を変えられたりすることは、気持ちの良いことではないだろう。
特に問題になりやすいのが、以下のようなケースだ。
原曲をアレンジしてまったく違う雰囲気に変えている
クレジット(作詞・作曲者名)を記載していない
替え歌にしてしまっている
動画の収益化をしている
こうした行為は、たとえ違法でなかったとしても、著作者にとっては「勝手なことをされた」と感じられる行動だ。
“違法じゃないから自由”ではなく、“許されていることに感謝”する姿勢を持つべき
たとえば、好きなギタリストの曲をコピーして動画にする場合、
「この曲を演奏できて嬉しいです。素晴らしい楽曲をありがとうございます」と、
ひと言でも書いてある投稿を見ると、見ている側も気持ちよくなる。
その一方で、「無断転載・無許可アレンジ・ノークレジット・収益化」などが揃うと、見ていて悲しい気持ちになることもある。
それは演奏の善し悪しの問題ではなく、姿勢の問題だ。
音楽を創った人へのリスペクトや、感謝の気持ちがあれば、
自然と投稿内容や言葉選びにも気を配るようになるはずだ。
演奏者としての良識と責任を持とう
ギターを弾く人、演奏をSNSにアップする人、どちらも素晴らしい音楽文化の担い手だ。
だからこそ、著作者の気持ちを理解し、尊重することが求められている。
「著作権的に問題ない範囲だからOK」ではなく、
「著作者が嫌がるような使い方をしていないか?」という視点を忘れないようにしたい。
そのうえで、
クレジットをしっかり書く
商用利用は控える。
改変や編集は慎重に行う
コメント欄や概要欄で、楽曲に対する敬意や感謝を伝える
といった配慮ができれば、演奏活動がより気持ちの良いものになる。
まとめ|“許可されていないけど許されている”という現実を理解しておこう
SNSでの音楽活動は、法的にはグレーゾーンであることが多い
それでも著作者が黙認してくれているケースが多く、善意で支えられている
「違法じゃないからOK」という姿勢では、いずれトラブルになる可能性がある
著作者への敬意と感謝を持って、良識ある活動を心がけよう
演奏者と著作者の間に“信頼関係”が生まれれば、SNS上の音楽活動はもっと自由で、楽しくて、持続可能な文化になっていくはずだ。
ギターを楽しむ人の一人として、自分の表現が誰かの創作の上に成り立っていることを忘れずにいたい。